演題:“建設人として拙い経験から語る”

匝瑳高校京葉支部総会での講演内容
於:京成ミラマーレ6階
福田 正勝 

【はじめに】

ただいま、ご紹介いただきました 福田正勝 でございます。 20回卒でありますので、1968年(昭和43年)の卒業となります。

 本日は、役員の皆様からのご要請でこの場に立たせて頂いておりますが、皆様の前でお話ができるような内容は、なかなか無いのです。 私が社会に出て41年が経過しておりまして、その間仕事を通して、又仕事以外のお付き合いを通じて、様々な経験を積んで参りました。その一端とそこで考えたことを皆様にお話しすることでお許し願いたいと考え、思い切ってお受けした次第です。 まず、簡単に自己紹介をさせていただきます。1968年昭和43年に匝瑳高校を卒業し、法政大学工学部建築学科に入学し、1972年(昭和47年)に同大学を卒業し、同年三井建設株式会社に入社致しました。三井建設は、10年前に旧住友建設株式会社と合併し、現在三井住友建設株式会社という社名となっております。 入社当時は、「日本列島改造論」が大ブームでした。故田中角栄氏が総理大臣となり、建設業は花形産業でございました。 その中、私は大量の同期生と共に入社し、当初名古屋支店に現場担当者として配属され4年を経て、本社コストセンター、建築技術部に5年、東京建築支店に18年、大阪支店3年を会社統合後、本店リニューアル部長、プラント部長、横浜支店長、東京建築支店長を経て、現在の任に就いております。 東京建築支店の在籍中には、3年間のシンガポールでの新築工事に従事した期間も含まれております。 とにかく、異動の多い会社員生活でありました。途中合併はあったものの一つの会社にずっと勤務してきました。

 本日は、そうした経歴に中から、何件かお話したいと思います。

 数多くある業態のほんの一部であります建設業の中のたった一人の人間の拙い経験に基づく話でございますので、多分に意に反すること、また、わかりにくかったりすることがあると思われますが、これから話させて頂きます。

 本来、双方向の議論が好ましいと存じますが、お時間の都合上一方的に話をさせていただきます。 ご異論、ご意見、ご質疑は後程頂戴することとさせて頂きます。  大きく分けて3題(3つのテーマ)に分けて話を進めます。

  1. オイルショック
  2. バブル到来の予感
  3. 3つの「失敗」と「運」について

の3題に分けて話をさせて頂きます。

【オイルショック】

 オイルショックについて、話をします。

 小職が入社したのが1972年(昭和47年)でありますから、入社してはじめての現場の途中で経験しました。  

 当時の世相はといえば、学生運動が盛んでありました。また、第一次田中内閣が発足した時期であり、「日本列島改造論」が大ブームとなっていまして、我が建設業は世間一般からみて花形の産業でありました。

 スポーツ界でも「長島」、「王」を擁する巨人軍が常勝軍団として存在しており、相撲界では、「輪島」、「初代貴乃花」が大関に同時昇進し、「貴輪時代」の幕開けと噺されていました。 世の中は暗くなく、好況の波にのせられたような感がありました。

 しかし、そうした中で公害問題など深刻な社会問題が内包され、それらが少しずつではあれ顕在化してきており、暗い影が見え始めていた状況でもありました。

  入社時の研修期間を終わり、現場に配属になり、何から何まで覚えていかなくてはいけない中、先輩に教えてもらいながら必死に過ごす毎日でした。建物は官公庁発注のバスターミナル併設公営住宅でありました。 各種届出、仮設準備⇒ 杭工事 ⇒ 土工事 ⇒ 基礎工事 ⇒ 鉄骨工事と鉄骨鉄筋コンクリート造10階の建物が少しずつ着実に進んでいきます。 基礎躯体から構造体上部の躯体に進み始めたころ、当社元請会社からの作業予定人員の要請に対して、序々にではありますが、作業人員が少なくなっていきました。その差というか、作業工程を守るために必要な人員と実際に作業してくれる人数の差がどんどん広がっていきました。協力業者さんからの話では、「工事量が多く、忙しくて職人が払底している」というのが言い訳でありました。 そんなある日、突然「オイルショック」という言葉が新聞紙上に出ました。産油国が原油の価格を上げるために、生産調整する、または出荷調整するという挙に出て、原油の輸入国であるわが国では原油が入ってこない。大変なことになるという論調の報道がなされ、それに呼応したように、毎日トイレットペーパーを買いだめする主婦の姿がテレビ、新聞で報道されました。このパニックの本質が良く分かりませんでしたが、私たち現実の仕事にかかわることで、躯体工事(これは建物の構造体のことをこのように呼びますが)に必要不可欠な生コンクリート(セメント、砂、砂利、水を混ぜたもの)の入荷が出来なくなるという騒ぎとなりました。 セメントが不足しているというのが、主たる理由で、生コンプラント工場から入荷量が制限されてきました。現場では、何日かに一回コンクリート打設という工程があります。 “鉄筋を組み立て、型枠という作業をして、そこにコンクリートを打設して、コンクリートが固まったら、型枠を脱型する”という作業を繰り返すのですが、生コンクリートの入荷量の制限で思ったように作業が進みません。300m3打設したいのですが、100m3に制限されて対応する。工程が組みにくくなると同時に作業員は自分がやるべき仕事量が制限されるため、仕事がはかどらない。だから、そうした不効率な現場には人員の配置をおさえるといった、悪循環が現出。一現場または一会社の力ではどうしようもない状態でした。全社的にも支店としても最大限の努力はしたもののこの状況は打開できませんでした。このような状態が約半年以上も続いたかと思います。現場の工程はもう文字通り「ぐちゃぐちゃ」となりました。 この間に予定していた工程が、3ヶ月以上遅れてしまいました。 「工期を守る」ことは建設業者として最重要事項の一つであります お客様には工期の延伸願いをお願いしましたが、これは認めてもらえない。当然、延伸のコスト増についても認められない。 こうしたパニックに前例がなかったため、どうすることもできず、日本中の建設業者が困りに困りました。 我々は自助努力で全体工期を守るべく必死で頑張りました。当時の私などはやれといわれたことをやっているに過ぎませんでした。様々な障害はありましたが、何とか工期を守って工事を完成させました。当然、仕事が夜中の12時までで終わったことは無かったし、土曜日、日曜日は関係なし。若かったですが、良く身体が持ったものと今考えれば思います。 当時の建設現場では、土曜作業は当たり前(他業種でも土休は完全には定着していなかった時代ですが)。日曜日も近隣の皆様が了解してくれれば休みなく進めておりました。 「オイルショック」という一騒動で、この期間には仕方なく日曜を全休日とする現場が多くなったのです。この流れが定着してきたある日、日曜日の作業を職人さんにお話ししたところ、日曜の作業を拒否する人が増えてきたのです。日曜日にゆっくり休んで家族と過ごすことの「良さ」を話す職人さんが増えたということです。 そんな職人さんには、私などが頼み込んで、無理を言うことが多くなり残念でしたが、この騒動が、なかなか自分たちだけでは変われない建設という作業、業界に一石を投じたのではないかと生意気にも思いました。最初の現場で経験したオイルショックは、日本が世界との関係を考えるという点で黒船だったのではないでしょうか。

【2.バブル到来の予感】

時代は移りますが、1986年〜88年(昭和61年〜63年)。 私は、都内某社ご発注の事務所ビル新築工事作業所に勤務しておりました。都心の某大学敷地跡に建設されるという事務所ビルです。外壁は石貼りとガラスカーテンウォールと豪華で、かつ、落ち着いた品格のあるビルでした。 「インテリジェントビル」という和製英語がいろいろな場面で語られ始めていた時期であり、地下3階・地上7階建で、平面的に長い大きなインテリジェントビルでありました。

 私自身が、このビルが頭の中のデータとして捉えやすく、記憶が鮮明であるのは、どうもこの延床面積が「1万坪」というすっきりした数字のせいのようです。我々の業界ではよく「坪当たりいくら」というディメンションで建物コスト等を語りますので、こういうきりの良い坪数であると換算がとても楽なのです。そのためか、今でもかなりのデータが記憶として残っております。

 地下には、電力会社の変電所があり、地域冷暖房のための巨大な蓄熱槽がありました。 工期は約2年。当初、このビルは某大手会社がほぼ全フロアーにテナントとして入居する予定でありましたが、途中の別の会社がキーテナントとして入居することとなりました。 この当時、まだ「バブル」という言葉は使われていませんでしたが、とにかく土地を始めとして色々なものが値上がりしていました。 「インフレ」というのが適切なのかわからないのですが、我々建設業界でも様々なものが「どんどん」値上がりしていっておりました。この工事だけではないのですが、一例をあげれば、型枠工事業者への発注単価ですが、使用する材料と投入する労務量を合算して、「u」当たりの複合単価として表しますが、「2000円/u」強であった単価が、短期間に「あれよあれよ」という間に、「3000円/u」となり、「4000円/u」、「5000円/u」となっていきました。 職人さんの払底に伴う、建設会社同士で繰り広げた職人さんの争奪戦がこの単価上昇をあおったところもあると思いますが、因果関係が明確にはわからない状況でした。当時、実際に働いていた職人さんと話す機会があり、色々聞いてみると給金が倍になっているわけではないらしい。しかし、上昇していることは確かで、心に安心感が出来て、明るい未来が予測できる気持ちになっていたのは事実でありました。 こうした高騰は建設業の世界だけではなく、不動産業も同様でありました。ビルの賃貸料も「うなぎ昇り」となっていました。 我々が建設していたビルも、当初ある賃貸料が設定され合意の上で、スタートしていたものの、工事をしている2年間に周辺建物の賃貸料の高騰激変により、ものすごい値段になってしましました。これにより、最初に予定していたテナントは「撤去」の意向表明となり、当時元気のよかった業種の会社が本社ビルとしてテナント入りを決定しました。 新規賃料は正式には聞いたものではなく、「又聞き」の世界ですが、この値上がりには本当に驚いたものでした。 私は当時では、これまでこうしたことを余り考えたことがなかったのですが、ほぼ決定された新テナントの賃貸料金をお聞きして、例によって1万坪という分かりやすい延床面積であることも手伝い、すぐに計算できたことがありました。我々の建設工事代金と約2年分の賃貸料が同額なのです。非常にショックを受けました。毎日、毎日我々現場員も、300人〜500人の仕事している職人さんも、それに関係する設計事務所を始めとする関係者も、全員が汗を流してこの建物の完成に向けて進んできました。工期である約2年間仕事をしてきました。全員には家族があり、その家族を生活させるだけの給料をもらったはずです。更に、建材・資材も電気・給排水・空調等の設備の機材も全て包括した工事代金が2年間の賃貸収入とほぼ同じとは・・・。 「これはどこかおかしいな」と私は直感しました。 もちろん、土地のもっている価値すなわち、土地の購入代金も考えなくてはならないのだから、建設工事費のみに思い入れを持つ私の一方的な考えが正しいかどうかはわかりません。それでも、私はこのとき初めて「これは、おかしい」という意識をはっきりと心の中で感じました。この現場で、私は「バブル」という得体の知れない社会経済の動きを体感的に労働対価という観点で実感しました。 しかし、これから日本の経済及び社会全体はどのような進み方をするのか、当時の私には分かるすべもありませんでした。建設技術者は、現場を覆う「仮囲い」の中で仕事をしているため、「仮囲いの外」のことは知らない等とご指摘を受けることがありますが、ご指摘は一部当っていると思いますが、「ものをつくる」最先端にいることは「商売」の最先端にいることなので、社会の動きに直結していると思います。「上」は発注者のお客様、「下」は多くの協力会社さんとの日々のやりとりの中、耳を澄ませば、社会の動きが身体でわかる、面白い職場です。 この後、日経平均が最高値を付けた1989年の年末まで、一直線にバブル景気は続き、その後もしばらく続きました。これらに乗じて我々建設業界も「受注」から「造注」という考えの下、「土地の購入」や「開発もの」の推進等でどんどんと右肩上がりを想定した投資をしていきました。これら「一周遅れ」の投資は、バブル倒壊後重くのしかかり、我々を、苦しみの中に落とし込むこととなります。

【3.3つの失敗と運について・・・挫折】

《海外工事での不採算》

 ここでは、失敗というより建設技術者としてまたは、建設会社の社員として、私が体験した「苦しい体験」、言い方を換えれば不幸な経験つまり、「挫折」についてお話をしてみます。

 まずは、海外工事での不採算のお話。 1994年(平成6年)私は都内で大きな仕事に取り組んでいました。ガスタンクの機能をガスガバナステーションに切り替え、その後タンクを解体してガスタンクのある広大な敷地を利用して住宅を建設するという工事でした。 地下に構造物をつくるガバナステーションの新設を1年、その後ガスタンクの解体、建物新築工事へと3年の計4年の工期でした。 私は作業所副所長として、この工事に参画しておりました。工期も残すところ「あと1年」という佳境に入った時、突然会社から指令が来て、シンガポールで大規模な住宅建設工事が受注出来たので、そこに行ってくれというものでした。余りの突然のことで、先ずはびっくりしました。現在の現場のことも様々な気がかりなことはありましたが、優秀な仲間がいましたからこちらは何とかなると思いました。通常ですと私は何のけれんみもなく、家族と相談してお受けするのですが、この時ばかりは考え込んでしまいました。当時、私は同居している母親がお医者様から余命約1年という宣告を受けていたのです。むろん、母には内密にしておりました。私は養子で母は養母。私の実父のいとこに当ります。養父が早く亡くなりましたので、女手一つで私を大学まで出してくれた大恩人でもあります。悩みに悩み母と相談しましたところ、「行ってこい」という母の一言で女房とも相談の上、行くことを決断しました。「申し訳ない」という苦しい思いが私にはありました。 そうした無理をして赴任しました。当時としては「断る」という選択肢は会社を辞める以外なかったと今でも思います。 シンガポールでの工事は、イーストコーストにあるコンドミニアムの建設でした。30階建て4棟、12階建て2棟、9階建て1棟という大規模なもので、地下も地下3階の大規模駐車場で各棟がつながっており、住戸数1068戸、延床面積16万uという大きな工事でした。 先ずは下見に行って、計画・概要・状況を聞き、東京で準備に入りました。その段階で判明したことが

等、準備すればする程、とんでもないことになるのではという不安が増してきました。辞令を言い渡されて約1ヶ月で現地に乗り込みました。乗り込んで3ヶ月後、東京に報告にあがりました。必死で精査したコストを見直し(実行予算といいます)のこと。工期の見直しのこと。一生懸命説明したのですが、「始まったばかりなので、そんなことはわからないだろう」的な発想で真剣に取り上げてもらえませんでした。 私は、1ヶ月に一度私の会社の所属母体である東京建築支店と海外事業部宛にレポートを作成して提出することにしました。工期については多少のコストアップはあるもののスピードにメリットのある、30階建4棟の壁式構造のPC工法を採用し、壁の構造体部分を工場にて製作を行うよう変更業務に努力しました。実はシンガポールでは初めての試みで高評価を得ました。 一方、コストですがこれは言い出したらキリが無い程たくさんのことがありました。2、3の例を挙げますとシンガポールでは「土工事」をする場合、大変難しい「マリンクレー(海生粘土)」という地層があります。これが特に土工事については悪さをします。従いまして、地下部分の工事は要注意なのです。この現場では土砂の崩壊を防ぐため、山留と切梁というものを施工しながら進みます。これにかかるコストが当初の見積時点(契約時点)のものと実際かかるであろうコストが10倍も異なることがわかりました。この件は、お客様とも計画の正当性を主張し、再三に渡り交渉しましたが、答えは「あなたの会社が見積したのではないですか。お金は出せません」という回答でした。危険を伴う作業ですので、我々の新たに検討した計画を変えることは出来ません。何度も何度も交渉するもお金は出してもらえませんでした。 もう一例は、電気・給排水設備は「ノミネートサブコン」と言われる我が国だと「コストオン」といわれるものに似た発注方式でありましたが、当初規模に比して異常にこの部分の価格が安いと思っていました。工事費はノミネートサブコンとお施主様で決めます。仕組みは、我々元請業者を通してこの取り決めた金額を支払うというもので、これに例えば3%という世話役料とも言える「アテンダンスフィー」をのせたものが我が社に入るというものです。当初考えたとおり、最終的には、電気・給排水設備工事費は当初の3倍位になりました。

 しかし、契約によりアテンダンスフィーは最初の契約時工事費の3%分のみで、いくら金額が増えようが据え置きということが判明しました。それはフェアーではないということで再三の交渉を行いましたが、こちらも駄目でした。日本国内の仕事の場合、追加に対してもコストオンフィーは継続するのが通例ですが。 又、追加変更交渉も我々が加わって議論されますから、少しずつでも利益回復を諮っていけるのですが、ノミネートサブコンの工事金額が増える分だけ手間が赤字になっていくという図式です。

 これは本当に参りました。更にノミネートサブコンは電気設備に限りません。ガラスカーテンウォールをはじめとするサッシュ、石工事等工事費が高いものはこの方式でしたので原価の改善はできませんでした。

 結局、最終的には契約条項の中にある「ボーナス条項」でお金を頂いたものの、惨憺たる結果で終わりました。私としては、大きな挫折でした。 この間、会社の体制のお話をしますと、私が3年間シンガポールにいた間に社長は代わり、所属母体の東京建築支店長は4人も代わり、海外事業部長が同じく3人代わるという程激変があり、「様変わり」をしておりました。多くのステークホルダーの皆様にご迷惑をおかけした時代でありました。 そんなこととは別に、私は不採算というこの現場の結果に対して、甘んじて全てのご批判を受け、最終的には全て「私の責任」という覚悟をしていましたが、心無い人の数々の発言には内心「カッ」ときていました。 初めて会社を辞めようかと思ったのもこの時点でした。最初にお話した母は赴任して1年3ヶ月で息を引き取りました。このことは今でも深い心の傷として残っております。しかし、私にとりましてシンガポールでの建設に従事した経験は珠玉の体験として残っております。 東京に帰り、誹謗中傷も多くありましたが、たくさんの方がいたわりと応援をしてくれました。ひたすら、言い訳をせずに黙しました。シンガポールで自分で作成しまとめておいた「シンガポール建設事情流し読み」という冊子(レポート)を、読んでもらえる人には配布し、その上で語って欲しいと頼みました。 「捨てる神あれば、拾う神有り」と申します。帰国後1年間の「潜伏期間」を耐えて黙々と努力を重ね、1年後東京建築支店のライン部長に復活しました。引っ張り上げてくれた上司の方に感謝すると共に、「運が良い」ということを感じた次第です。

《大事故のこと》

 2002年(平成14年)1月23日のことでした。当時、私は大阪支店の建築部長をしておりました。 「タワークレーンが倒れた」という一報が入り、支店から当該現場までタクシーで駆けつけました。30分位かかったかと思いますが、現地上空には報道のヘリコプターが飛んでおり、凄まじい状況でした。 高さ35mのタワークレーンが隣接するバス通り方向に、その道路を塞ぐように転倒しており、その様はまさに地獄図でした。 私はとっさに、「これは必ず何人か死傷している」と思いました。本当に足がすくみました。やらなくてはいけないことが頭の中でぐるぐる廻っています。 先ずは、死傷者の救助と被害状況の把握、ご近隣への被害状況ヒアリング対応、架線を切断しておりますから停電の影響、当然ですが、警察署、労働基準監督署への届出報告、バス路線でありますことからバス会社への連絡等など。何よりも事を急ぐのは、この巨大なクレーンを敷地の中に戻すこと。夜間照明の確保から、クレーンを吊り上げる100トンを越す大型レッカーの手配。鳶工、鍛冶工はじめ、作業員の手配。協力業者を通じて、分担して大阪中に電話しまくりました。 お客様への報告。現地対策本部の設置。とにかく出来る限りのスピードで一つ一つ片付けました。お客様からは30分毎の報告が義務付けられました。そんな中、翌日の午前4時頃何とか、タワークレーン本体と支柱であるマスト全てを現場敷地内に切断して、取り込みました。朝5時すぎのバスの運転開始にはギリギリ間に合いました。余談ですが、最後道路清掃をしているときに、雪がパラパラと降ってきました。異常に寒かったのを記憶しております。 身体も気持ちも・・・。

 ただ、この大惨事で、怪我人1名(当社のクレーンオペレーター)、軽傷者が3名ということが判明し、ホッとしました。この徹夜作業をした日から、身体がいくつあっても足りない程の激務の日が続きました。関係者みんなの協力を得ながらやっているのですが、陣頭に立つ人間として、必死に最大限の動きをしました。

 警察からの責任者としての事情聴取が何回も繰り返され、各所への報告(社外、社内)も大変な数に上ります。開催したご近隣住民の皆様への説明会でも「つるし上げ」状態でした。私自身、現場の所長と共に尋問を受けているため、歯切れの良い回答が出来ません。これが強烈なストレスとなっていました。 会社は、本社、支店共全面的に協力してくれて会社全体として全ての部署に当ることが出来ました。

 あっという間に1ヶ月が過ぎましたが、この間私は1日も休む事無く奮闘していました。この1ヶ月程は単身の身ですが、女房も呼びませんでした。何時に帰るかわからず、妙な心配をかけてはいけないと思ったからです。1ヶ月過ぎた頃、たまたまアパート近くのサウナに行きました。皆の前では、気を張っていましたが、私自身一人になるともう「フラフラ」の状態でした。そこでマッサージをしてもらいました。マッサージのおばさんが「こんなにパンパンに背中から肩、首と凝っているのに、良く大丈夫だったね。このままにしておいたら、貴方死んじゃうよ」と脅かされました。 徐々に落ち着いて、原因の究明には大学教授をトップに第三者機関に依頼し、当社研究所及び本社建築技術部が資料の作成を進めました。警察との対応は引き続き、私が進める。私は会社と部下の所長以下のメンバーを守るため、全精力を傾けました。 行政諸官公庁との打合せ交渉、周辺住民の被害把握と補償等、お施主様とは工事再開への準備などなど、とにかく建築部長の仕事の50%以上がこの対応で忙殺されました。 約1年後、警察から検察への書類送致がなされました。警察としては、死傷者が無いことから、社会に対して不安にさせるような行為をしてしまったことに対しての取調べというスタンスでありました。一応、この事故が落ち着いた頃、私は合併新会社の本社リニューアル部長として東京へ帰任しました。

会社では、大阪支店の建て直しのために投入したのに、建て直しが出来なかった男という感じがあり、冷たい視線も感じました。しかしながら、私が出来ることは全てやったという満足感が私にはありました。ここで思わぬことがおこります。自分が所属している会社では、こういう扱いだったのですが、お客様が私の働きを評価してくださっていたのです。そんな話を聞き、私としてはとても嬉しい気持ちになりました。きちんと見ている人はいるものだと心から感謝しました。 大事故でありながら、死傷者が出なかったこと、この不幸中の幸いという運。

 そして、見てくれた人が評価してくれたことも図らずも幸運、人間苦しくても一生懸命やっていると何とかなるものだとつくづく思いました。「運が良い」ということです。 大阪支店には通算2年半しかいませんでした、関西という土地の雰囲気にふれ、人に接し、商慣習にふれ、私としては大変な財産を頂いた。これも幸運かもしれません。

《病気》

 3つ目の挫折は病気です。

 大事故の対応からの続きになりますが、2003年(平成15年)4月1日、合併会社がスタートし、私は本社のリニューアル部長として着任しました。今後、需要が増すであろうリニューアル市場を会社として「どう展開していく」のか等の戦略を考え、支店の支援をするという部署でした。  ここで、仕事のことでは無いのですが、どうも左歯ぐきの奥の方に「しこり」があり、なかなか直らないので、気になりお医者さんにいきました。体調は余り悪くなかったのですが、激務の続いた後であるので、「何も無いと良いな」と内心思っておりました。大きな病院に廻してもらい、細胞検査をしてもらったところ、「癌」と判明しました。先生から話を伺ったときには、目の前が真っ暗になる程のショックでした。会社員として勤めてきて31年、第4コーナーを回ろうとしているところで入院。実に残念でした。 しかし。病気は前向きに治さなければいけません。「左咽頭部悪性腫瘍」というのが正式名称で、検査の上、放射線で焼き切るという方法を選択しました。会社は2ヶ月半程休ませてもらいました。心の葛藤も大変なものがありましたが、そのこととは別にとても辛い治療でありました。全ての処置が終わり、退院し、すぐに会社に出ました。  留守中、皆さんには迷惑を掛け、特に部下のメンバーには迷惑を掛けました。ただ、私の席はそのままでありました。しばらくはとても辛い通勤で有りましたが、何とか頑張りました。いろいろあったものの、今日まで約10年間元気で過ごしております。神様から命をもらったということです。家族や周辺の皆様の温かい支えがあったればこその回復であり、感謝の気持ちで一杯ですが、治療したタイミング、そして、良い先生に対応して頂けたことも図らずも幸運以外の何物でもないと思います。

この後、しばらくの間、リニューアル部長として地道に仕事に取り組み、2年後にまた現業に復帰しました。 そして、プラント部長、横浜支店長、東京建築支店長を経て、現在の立場を頂いております。

会社員生活の中のこれら3つの挫折は何とか乗り越えることが出来ました。 多くの仲間の協力、家族の支え、ひっぱり上げてくれた人への感謝。 それはそれは色々な経験をさせて頂きました。いわば、私は会社に育てて頂いた人間です。 ですから、会社に恩返しをするつもりで、毎日努力しておりますし、今後も努力して参ります。

 とりとめも無く話してまいりましたが、つまらない話にお付き合いいただきまして誠に有難うございました。これからも誠実に一人の建設人として頑張ってまいる所存です。今日はこのような機会を与えていただきました幹事の皆様に心より感謝いたします。どうも有り難うございました。